菓子製造・問屋街
全国でも珍しいお菓子メーカー大集結 〜明道町〜
実はあのお菓子も「エキ・シロ」発!
日本有数のお菓子問屋として賑わった新町・幅下エリア
西区の新町・幅下周辺は通称「明道町」と呼ばれ、お菓子・玩具の製造店が集まる全国でも珍しい問屋街です。その始まりは江戸時代にさかのぼり、昭和初期には製造所数130以上となり、全国にその名を知られる菓子問屋街に成長しました。数は減っていますが、現在も明道町には菓子づくりを続けるメーカーや問屋が集まり、心ときめく懐かしい菓子や玩具を購入したり、昔ながらの問屋街の雰囲気を感じながら散策できる人気のスポットとなっています。※「明道町」とは、昭和56年(1981年)の町名変更まで実際にこの界隈にあった町名です。現在はバス停の名前や交差点名、都市高速の出入口名として残っています。ここでは、通称の「明道町」を使用しています。
名古屋城築城の職人に向けて作った甘味がルーツ
昭和初期、お菓子製造所がずらりと並んで最も賑わったころ、明道町は菓子の原料の落花生や醤油など、「菓子の匂いがする町」だったそうです。
そんな菓子づくりの始まりは江戸時代。名古屋城築城に従事する職人のおやつとして、城に近い明道町に菓子屋ができたことといわれています。また、美濃路を行き交う旅人に向けて、尾張藩の武士たちが内職で煎餅や飴菓子などを作ったことから、菓子づくりの拠点として栄えました。
大正12年(1923年)、関東大震災で東京の菓子業界が打撃を受け、たくさんの職人が名古屋へ流れてきました。これを機に、路面電車が縦横に走るという好立地もあって、明道町の菓子は全国へ拡大。通りに連なる製造店や問屋には、毎朝、各地をめぐる旅問屋やブリキ缶を背負って売り歩く女性「カンカン部隊」が押しかけ、賑わいました。こうして明道町は日本有数の菓子問屋街となり、高度経済成長期に隆盛を極めました。
菓子づくりの老舗メーカーや問屋をめぐってみよう
現在もまちには、昭和初期に創業し、営業を続ける老舗のメーカーや問屋が集まっています。昭和14年(1939年)創業の『豆福』ではバラエティ豊かな風味の豆菓子を製造・販売。また、会社のロゴなどのオリジナル飴を発注できる『歌舞伎飴本舗』、大人向けの駄菓子を販売する『荒牧商店』、名古屋の風習・嫁菓子などを扱う卸問屋『たつや』、景品やお祭り用の玩具が揃う『堀商店』などもあります。
さらに、西区内にはクッピーラムネの『カクダイ製菓』、マルカワフーセンガムの『丸川製菓』などもあり、全国規模の菓子製造の拠点となっています。
毎年、西区では菓子産業の魅力を広く発信するイベント「も~やっこ祭り」も開催。メーカーによる菓子の直接販売や組み飴の実演などを行い、お菓子文化を広めています。