歴史1
「どうつくった?家康」
エキ·シロで知る、家康の一大都市計画
~堀川、那古野·四間道、名古屋城~
名古屋城築城と清須越から始まる「エキ·シロ」エリアの歴史
名古屋駅から徒歩15分の場所には、歴史的景観が残る「那古野·四間道」や下町情緒溢れる「円頓寺商店街」があります。さらに約15分歩くと、尾張徳川家の居城「名古屋城」に到着。この名古屋駅~名古屋城までの魅力溢れる「エキ·シロ」エリアは、慶長15年(1610年)の徳川家康による名古屋城築城と、清須から町を丸ごと引っ越す一大計画「清須越」によって生まれました。家康が作ったのは、整然と配置された碁盤割の城下町。今もその町割りはほぼ変わっておらず、家康は名古屋のまちの原型を作ったといえます。
それから約400年。「エキ·シロ」エリアは、時代と共に姿や役割を変えながら、一方で地域の人々の手で大切に守られ、伝統と革新、新旧のエッセンスが入り混じった魅力的な観光スポットになっています。
堀川沿いにある、尾張藩の経済を支えた商人町「四間道」
慶長15年(1610年)、徳川家康の命によって名古屋城築城が始まります。城が作られただけでなく、築城関係者はもちろん、武士や職人、社寺、町人、商家など、約6万の人と約100の寺社、67の町、はては町名や橋の名前までが丸ごと引っ越す一大計画が実行されました。これを「清須越」と呼びます。尾張の政治的な中心地が、清須から名古屋へ移った歴史的なできごとでした。築城と同時に、城下町へ物資を運ぶために作られたのが「堀川」です。堀川の舟運によって、木材はもちろん、生活に必要な食料や物が城下町に届けられ、堀川の両側には水運を利用する商家が立ち並び、活気に溢れました。
堀川の西側にあり、今も江戸時代の町並みが残る「四間道」は、当時、尾張藩の経済を支えた代表的な商人町のひとつでした。四間道の名前は、元禄13年(1700年)の大火のあと、防火や商業活動のために道幅を「四間(約7m)」に拡大したこと由来するといわれます。防火のために石垣の上に土蔵群が建てられ、道を挟んで西側には町家が連なっています。四間道の商人は、米や穀類、味噌、薪炭など、重くかさばる商品を扱っていました。物資の積み下ろしのため、商家の玄関は堀川側を向き、土蔵は家の裏手に建てられています。
四間道にある愛知県指定文化財「伊藤家住宅」は、尾張藩御用商人を務めた家で、当時の商家の建物の特徴を留めると共に、その暮らしぶりを偲ぶことができます。また、風情ある町並みには、蔵や町家を改装した趣深いレストランや雑貨店が点在。新旧の技術やデザインが融合したスポットとして注目を集めています。
かつて名古屋西部の盛り場として栄えた「円頓寺商店街」
四間道からほど近い場所にある「円頓寺商店街」は、アーケードがかかる下町情緒溢れる商店街です。近年では感度の高い店も並ぶ人気のスポットです。その始まりもまた、江戸時代のこと。かつて堀川を利用する人々の遊興地として栄え、その後、「圓頓寺」がこの地に移転すると、門前町としても賑わいます。また、美濃路街道がそばを通っていたことから、人々の往来も活発な場所でした。明治時代には食べ物や衣服、雑貨のお店、劇場、寄席などが立ち並び、名古屋西部の中心的な盛り場、商店街となりました。
現在も明治時代から続く老舗店が脈々とその歴史を刻んでいる一方、古き良き商店街の雰囲気に惹かれて、ゲストハウスやカフェなど、個性豊かな店も集まっています。